会員の声

「日本の慰霊事業は今!」

平成22年1月 事務局 若木 利博 (防衛大学校 #10期生)

先日久々に、防衛大学校同窓会本部(市ヶ谷)を訪問した。平成12年から同窓会本部でボランテアー活動として、第一事業部長名の名刺を準備して頂き、事業支援を担当したことを想い出した。その間、防衛大学校創立50周年記念行事が小原台で挙行され、建設間もない立派な記念講堂内の壇上で、小森谷(海#12)氏と共に記念行事の司会を担当した。想い出の小原台である。

平成21年1月から、(財)大東亜戦争全戦没者慰霊団体協議会(以下慰霊協)を支援中である。長い名称を持つ本協議会はいくつかの特性を持つが、名の示すとおり多くの民間の慰霊団体と共に大東亜戦争で戦死された日本人の慰霊を事業としている。名誉総裁として三笠宮崇仁親王殿下を仰ぎ、会長は陸士58期生の山本卓眞(現富士通(株)名誉会長)、理事長は柚木 文夫(陸#2)氏である。約半年間の業務を通じ、特に日本国の慰霊事業の概要と特性を垣間見ることが出来た。以下、日本の慰霊事業の特性と本協議会の事業内容を中心にご説明する。

「日本の慰霊事業は今!」

Ⅰ 日本の慰霊事業の概要

①日本の慰霊事業の特性及び問題点
過去の戦争に於いて、尊い生命を捧げられた戦没者に対する慰霊は、国家として極めて重要な義務である。しかし我が国においては戦没者慰霊に専従する国の行政機関も実行組織も無く、戦没者慰霊に関わる事業及び活動は、民間の戦没者慰霊団体に委ねられている。国民に対し、国が行っている戦後処理の事業としては、厚生労働省が復員局の任務を継承し、厚生労働省設置法「引き揚げ援護又は戦傷病者、戦没者遺族、未帰還者留守家族若しくはこれらに類する者に対する援護又は旧陸海軍の残務の整理を目的とする事業」のみを根拠とし、慰霊祭、遺骨収集、慰霊巡拝等が主体である。一方、米国を始めとする諸外国の政府機関は、組織的活動にて、戦没者、捕虜等を徹底的に捜索及び回収に尽力している。

②大東亜戦争における戦没者数と遺骨収集状況
大東亜戦争における硫黄島、沖縄、シベリア抑留戦死者を含む海外戦没者数は約240万人であり、その内日本に送還されたのは、約125万柱で、未送還のご遺骨が未だ約120万柱もある。そのうち約30万柱は海没遺骨であり、又約25万柱は中国の旧満州地域や北朝鮮、ウズベキスタンなどにあり、中国等は国民感情を理由に遺骨収集を拒否している。結果、未だに約60万柱余のご遺骨が異国の地に残置されている。 国の命により戦地に赴き、家族そして日本のために、日本の将来を信じて、亡くなられた多くの方々の遺骨を速やかに収集し、国家として感謝の気持ちを込め、慰霊を行うべきではないだろうか?

③軍人墓地の管理状況
戦前には、「陸軍墓地規則」等に基づき陸軍省と海軍省が軍人墓地(82箇所)の管理を行っていたが、戦後は軍所有の土地や施設は全て行政財産から一般財産として大蔵省に移管された。昭和26年6月以降は「事務次官通達」により軍人墓地を都道府県又は市町村に無償で貸付け、公園等として利用も可能とし、自治体で管理することとした。地元の善意のみに依存する維持管理には限界があり、放置された軍人墓地は厳しい状況に直面している。同様に、全国市町村に2万5千箇所以上もある忠魂碑・忠魂塔についても同様の状況にある。これらの忠魂碑等には戦没者の遺骨を収納している施設も多いと聞く。国のために殉ぜられた戦没者を祭る軍人墓地を管理し、慰霊するのは、国の責務であろう。しかしながら、この軍人墓地を維持管理する国の機関・組織が存在しない現状も、異常であろう?

④海外所在民間建立の慰霊碑の現況
国は大東亜戦争の主要な戦域に、合計15箇所の国立戦没者慰霊碑を建立している。しかし、海外各地にはその他、戦友会、部隊会等によって建立された慰霊碑(民間慰霊碑)が多く存在し、680箇所を数えている。建立団体の多くは、長期にわたりその地を訪れ戦友の霊を弔うと共、地元関係者との交流を重ね、維持管理に努力されているが、近年は会員の高齢化に伴い、十分その意を尽くすことが困難となり、荒廃化の様相も十分推測できる。これらの民間建立慰霊碑の維持管理に、国としての格段の配慮を期待するものである。

⑤日本国は何故慰霊事業、遺骨収集、軍人墓地の管理を放置しているのか?
戦後、陸・海軍省の解体に始まり、GHQの神道指令及び関連通達による「自治体主催の戦没者慰霊祭の禁止、忠魂碑の撤去」、等の影響であろう。例えば「学校が主催する靖国神社や護国神社及び主として戦没者を祀った神社を訪問してはならない」という禁止条項あり、独立後も日本は戦没者慰霊事業を放置してきた。その後、昭和59年3月10日衆議院予算委員会で、「独立国として神道指令は失効」とされ、平成20年文部科学省は関連通達を無効とし、訪問を解禁した。

⑥戦没者の慰霊に関わる日本国政府の姿勢・考え方(現状)
新公益法人法の別表(公益目的事業の定義)の22項目に戦没者慰霊に関わる該当項目は無い。当慰霊協の問い合わせに対し厚労省は、「障害者若しくは生活困窮者又は事故、災害若しくは犯罪による被害者の支援を目的とする事業」に該当すると回答した。流石にその後、戦没者慰霊は「国政の健全な運営の確保に資することを目的とする事業」に該当すると訂正した。しかし、そのようなレベルの問題だろうか?新たな法令で、「戦没者慰霊事業」と明記して制定されるべきであろう。

Ⅱ 慰霊協の概要

①設立時期:平成17年7月7日

②本協議会の設立の趣意:先の大戦においては、多くの方々が家族を思い、祖国の安泰と民族の幸せを念じつつ、散華されました。これら戦没者に対し国民として、末永く、感謝の念を捧げその心を讃え、慰霊の誠を捧げなければなりません。しかし長い歳月の経過の中に、国民の戦没者に対する慰霊の心が風化しつつあることを憂慮されます。私どもは戦没者崇敬に関する思想の昂揚を図るとともに、全戦没者慰霊事業の永続を図るため、既存の戦没者諸団体と相諮り当協議会が設立いたしました。

③事業項目は、戦没者崇敬に関する思想の普及、戦没者慰霊の事業、今後の慰霊事業のあり方研究、海外における戦没者遺骨の収集及び戦没者慰霊碑の護持に協力することである。

④本協議会の参加団体(正会員団体)(平成21年7月1日現在)は、英霊にこたえる会、(財)千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会、(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会、(NPO法人)JYMAの他、計32団体である。

Ⅲ まとめ

当慰霊協事務局は、理事長以下2名の小勢力であるが、参加正会員団体と共に、(財)偕行社、(財)水交会及びつばさ会等の関連団体の協力を得て、戦没者崇敬に関する思想の普及、遺骨収集支援、及び全戦没者の慰霊事業を行うことを重視して事業を推進している。毎年7月には慰霊協の名誉総裁である三笠宮崇仁親王殿下のご臨席を仰ぎ、靖国神社で合同慰霊祭を実施し、多くの賛助会員等の参加を得ている。更に、遺骨収集、軍人墓地管理を含め全ての慰霊事業を国の責任で実施して頂くため、各慰霊団体と相携えて、政府への働きかけに努力している。読者の皆様には、日本の慰霊事業の概要を承知して頂き、本慰霊協の活動にご声援・ご支援・ご協力を頂ければ幸いです。

戦没者遺族援護はホームレス対策と同義か
ー戦没者顕彰の念を忘却した
遺族援護と遺骨収集の現場からー

平成23年10月 飯田 正能 (月刊誌『正論』平成23年9月号佐波優子氏のレポートより)

産経新聞社発行の月刊誌『正論』平成23年9月号に掲載されたジャーナリスト佐波優子氏の標題レポートを読んで愕然とさせられた。次に掲載するのは、その一部の要旨である。
 昨年、平成22年7月、横浜市に住む戦病死者の遺族井野瑶子さんの元に、「全国戦没者追悼式」への招待状が神奈川県から届いた。毎年8月15日に、厚生労働省が主催し、天皇皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ、東京・九段の日本武道館で開催されている、大東亜戦争全戦没者の御霊を慰霊するための追悼式であるが、その案内状の担当部署名を見て驚いた。それは何と神奈川県地域保険福祉部生活援護課の中の「援護・ホームレス対策グループ」と明記されていたからである。ホームレスを差別する気持ちはなくとも、国のために命を捧げた英霊を「かわいそうな人を助けてやる」といった姿勢で、ホームレスと同視する、これが国自体の先の大戦に対する否定的な考え方に発しており、英霊に対する敬意や追悼の念は微塵も見られず、遺族の誇りを傷つけて平気な政治や行政の実態なのかと、憤懣やる方ないものがある。

国のために散華された英霊に対して最高の礼をもって処遇するのが世界の常識である。そこでは戦争の勝敗など問題ではない。戦争は悪逆非道なものであるかもしれない。しかし、国のため、家族や愛する人を守るために戦って命を捧げた英霊に感謝と敬意を表するのは世界の常識である。

戦後66年を経た今日、軍人恩給の受給者や遺族の減少と行政の組織再編・スリム化が重なり、戦後処理も合理化・縮小化の一途を辿っている。行政の効率化は一概に否定できないが、戦後処理を扱うのは単なるモノを扱う部署ではない。戦没者への敬意や感謝の念を忘れてはならないはずなのに、職務の遂行が事務的過ぎていると、戦友や遺族達から嘆きの声があがっているというのである。

著者の調査によると、神奈川県の担当者は「私達のグループでは、低所得者層の生活保護やホームレスの方々への就労支援、戦没者の追悼や軍人恩給、遺族年金など様々な業務を一緒に扱っています。『援護・ホームレス対策グループ』という名称については、ご遺族からも多くのご指摘があり、配慮が足りなかったと認識しています。今年4月からは『援護グループ』という名称に変更しました」との話であったが、名称が変わっただけで、担当業務内容は昨年と全く同じだという。

全国の自治体の戦後処理をどういった部署が担当しているか、全国47都道府県の担当者に当たって調査したところ、共通して言えることは、担当部署はすべて福祉を担当する部(局)・課にあるということ。実際に担当する係や班レベルの部署は、自治体によって異なり、概ね次の三つに分類できる。

  1. 戦没者や遺族の援護・恩給だけを名実共に「援護」業務単独型(北海道、東京都、大阪、京都各府、山形、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、千葉、埼玉、山梨、静岡、愛知、新潟、富山、石川、福井、和歌山、奈良、兵庫、島根、鳥取、岡山、広島、山口、高知、愛媛、福岡、大分、宮崎、長崎、熊本、鹿児島、沖縄各県)
  2. 福祉や生活保護といった別の役割も担っている福祉兼務型(青森、秋田、長野、岐阜、三重、滋賀、徳島、香川、佐賀各県)
  3. 名前は「援護グループ」だが、実際はホームレスへの支援など他の業務を兼ねている名称のみの「援護」単独型(神奈川県)

そして、特に気になったのは、滋賀県健康福祉部健康福祉政策課の平和・援護担当が製作・発行した子供向けシリーズ『戦争なんか大嫌い』である。

現在3巻まで出ている冊子で「県民の戦争体験を、次世代を担う子供たちに伝え、戦争の悲惨さや平和の尊さを訴えていくため」に発行したという。例えば「戦争という暴力」という項目では「特攻(特別攻撃)は自分自身を武器にして攻撃することだよね。戦争のころは、そんなとんでもないことを日本の国は考え、その求めに応じる若い人たちがいた。(中略)戦争は、とてつもなく大きな暴力だと思わないかい(後略)」とある。更に「平和のたまごの物語」というマンガが載っていて、主人公の小学6年生の少女が、おじいさんの戦争体験を聞いて、学校の社会の授業で発表し、クラス全員で平和について考え、地球を模した大きな卵「平和のたまご」の絵を描いて飾り、最後は「戦争を始めるのは大人、大人が始めた戦争に子供たちは泣いている。私は戦争なんか大キライな大人になる。平和が大好きな大人になる」と決心した少女の言葉でしめくくられているというのである。

「大東亜戦争」という戦争の正式名称について

平成25年4月 事務局 岩田 司朗

はじめに

本稿は、当協議会の設立にあたり、その法人名称を検討するに際し、論拠として活用した「原 四郎著『大東亜戦争開戦概史』(昭和48年12月刊)」中の標題の論文の一部を紹介するものであります。

なお、著者の原四郎氏は、戦史叢書「大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯」全5巻の執筆者でもあります。また、同論文の理解に役立つと思われる記述を他の文献等から引用し、注記を試みました。

マッカーサー総司令部の使用禁止命令

歴史の原点は先ず正しい名称を把握するにある。昭和16(1941)年12月8日開戦された戦争の名称は、もとより「大東亜戦争」という。昭和48(1973)年5月27日発行された防衛研修所戦史室の戦史叢書の標題に「大東亜戦争開戦経緯」と、初めて大東亜戦争という名称が表紙に使われた。何故に戦後太平洋戦争などという俗称が好んで使われ、大東亜戦争という正しい名称の使用が回避されてきたのであろうか。
昭和20(1945)年12月、GHQから発せられた指令に「公文書において大東亜戦争、八紘一宇乃至その他の用語にして、日本国としてその意味の聯想が、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義と切り離し得ざるものは、之を使用することを禁止する。而してかかる用語の即刻停止を命ずる」という一項目があった。

このようなGHQの指令に接した場合、日本国政府は「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」すなわち勅令第五四二号により、必要な命令を発するを常とした。しかしこのときは、同年12月20日文部次官通達(官総第二七○号)により、右GHQの指令を文部省管轄の機関、学校、団体等に伝達しただけであった。従って講和独立に伴い右指令は当然無効消滅した筈である。

仮に右文部次官通達の外に、勅令第五四二号に基づく何等かの措置がとられたとしても、講和独立に伴い、昭和27(1952)年4月11日法律第八一号は、「(一)勅令第五四二号は廃止する。(二)勅令第五四二号に基づく命令は別に法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合においてはこの法律施行の日から起算して180日に限り法律としての効力を有する」旨を定めたのである。そのとき我々は大東亜戦争という名称を依然として禁止したり、大東亜戦争という呼称に読みかえたり、または改めたりしなければならぬという法令が、新たに制定されたということを全く知らない。恩給法関係では現に大東亜戦争という名称が使われており、昭和30(1955)年12月内閣発行の「内閣七十年史」には、堂々と大東亜戦争という名称が使われているのである。いまだにその使用を避けるのは、イデオロギーによるものの外、以上の経緯に対する無理解に起因するものであろう。

さてGHQは何故大東亜戦争という名称を禁止したのであろうか。それは端的にいうと、大東亜戦争をもって大東亜新秩序を建設する戦争と誤解したからであろう。(注記)

大本営政府連絡会議の決定

昭和16(1941)年12月10日、大本営政府連絡会議は、「今次ノ対米英戦争及今後ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ支那事変ヲ含メ大東亜戦争ト呼称スル」と決定した。「支那事変ヲ含メ」ということは、誤解し易い表現であるが、対支作戦は大東亜戦争の一戦面として残るが、支那事変という呼称はこの時点から解消することを意味している。そして「今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争」とは、差し当たり予定の対蘭戦争を指し、万一に余儀なくされるかも知れぬ対ソ戦争をも予見していたのである。そして大東亜戦争という名称は昭和17年2月17日決定の法律第九号に掲記され、国家の主権行為としての正式名称として国民に親炙されたのであった。

その名称決定のとき太平洋戦争という案もあったのであるが、それでは海軍一方に偏するとして、マーシャル群島以西の西太平洋並びに日満支及び南方の大陸、すなわち大東亜の地域において闘われる戦争という意味で、大東亜戦争と名づけられたのである。昭和17(1942)年2月28日大本営政府連絡会議は、大東亜の地域を「日満支及び東経90度より東経180度までの間における南緯10度以北の南方諸地域」と規定しているのである。

元来日本は、歴史上戦争目的と戦争の名称とを全く別個に取り扱っている。すなわち明治二十七、八年戦役、明治三十七、八年戦役、昭和六年ないし九年事変(満州事変)、支那事変、大東亜戦争と呼んで、戦争の名称と戦争目的とをいまだかってからませたことはなかったのである。

大東亜戦争の戦争目的

然らば大東亜戦争の戦争目的如何というに、関係者に若干の思想の混乱不統一があるが筆者(注;著者をさす)をしていわしめれば、正しくは「自存自衛」の一事にあったと思う。9月6日の御前会議で、「対米英蘭戦争を辞せざる決意」が採択されてから、陸海軍の戦争指導事務当局は上司の意を体して、「対米英蘭戦争指導要綱」の策定及びその廟議決定に努めたのであるが、その要綱第一項には「対米英蘭戦争の目的は帝国の自存自衛を全うするに在り」と明記されていたのである。

また、宣戦の詔書案の基礎となるべき「開戦名目骨子案」なるものが、大本営政府連絡会議で11月中旬数次に亘り討議され、それが宣戦詔書第一次案に衣替えされて同月27日の連絡会議に上程されたのであるが、その「開戦名目骨子案」の最終案は次のとおりである。

  1. (前略)特に支那事変が勃発するや米英は啻に帝国の事変解決に直接妨害を加へ来れるのみならず、益々陽に重慶政権援助の策を強化して之を使嗾し、陰に重慶を支配して極東制覇の野望を積極化し来り、剰へ今や諸国を誘ひて帝国に対する武備を増強し、又直接経済断交等の措置を取り実質上の戦争行為を敢てし、帝国の存在を危殆に陥らしめたり。
  2. 然れども帝国は尚忍び難きを忍び、事態を平和的に解決せんことを期し、米に提議し折衝八ヶ月に及べるも、米は一も交譲の精神を示さず、極東に対する無用の干渉を意図して我死活の国利を拘束せんとせり。帝国にして米の主張を容認せんか、帝国の自存自衛は之を全うするに由なく、大東亜の安定亦得て望むべからず。斯くては支那事変完遂の為四年有余に亘り傾倒せる凡有努力は水泡に帰するものにして、帝国は存立と威信とに懸けて忍び得ざる所なり。
  3. (一部略)今や帝国の存立危殆に瀕せんとし大東亜の前途亦急を告ぐ。事茲に至り帝国は干戈を執り一切の障礙を破砕し大東亜積年の禍根を断つ外なきに至れり。

宣戦詔勅の眼目たる「帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ッテ一切ノ障礙ヲ破摧スルノ外ナキナリ」はかくして生まれたのである。「開戦名目骨子案」または宣戦詔書のいずれも大東亜新秩序建設などに亳も言及しておらないのである。
なお宣戦詔書の末尾の原案は「以テ皇道ノ大義ヲ中外ニ宣陽センコトヲ期ス」となっていたのであるが、木戸内大臣の「全く陛下の御思召に反する。帝国の安全確保を目標にするものでなければ陛下の御思召に到底そわない」という意見で「以テ帝国ノ光栄ヲ保全センコトヲ期ス」に修正されたのである。

しかるに、9月6日御前会議決定の国策では、「帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為対米英蘭戦争ヲ辞セザル決意ノ下」となっていたのに、11月5日御前会議決定の国策では、「帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自衛ヲ全ウシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為対米英蘭戦争ヲ決意シ」と定められ、戦争目的として大東亜新秩序建設が付加されたのであった。この11月5日の御前会議決定案文は11月1日の連絡会議の席上事務当局の関与なしで、即席で採択されたものであり、新秩序建設が付加された理由は明らかでない。
恐らくは一度開戦となれば戦争遂行上新秩序建設にまでつき進むであろうし、自存自衛と新秩序建設はしょせん表裏一体であると考えられたからであろう。しかし開戦決意に当たり、日本の最高指導層はもとより事務当局も、東亞諸民族開放のための戦争というような心の余裕は全くなかったのである。しかるに如何なる経緯によるものか、大東亜戦争という名称が閣議で決定された12月12日、情報局は「大東亜戦争と称するのは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定するの意味にあらず」と発表した。筆者(注;著者をさす)としては情報局は何を血迷ったかという外はないのである。恐らくは情報局事務当局の即断又は誤解等事務手続上の過失によるものであろう。それは寔に高価なものであった。

【注記】

当時のGHQの動きについて、江藤淳著「閉ざされた言語空間・・占領軍の検閲と戦後日本・・」(文藝春秋)では、次のように述べられている。

(前略)戦争の真相を叙述した『太平洋戦争史』(約一万五千語)と題する連載企画は、CI&E(民間情報教育局)が準備し、G-3(参謀第三部)の戦史官の校閲を経たのである。この企画の第一回は1945年12月8日に掲載され、以後ほとんどあらゆる日本の日刊紙に連載された。(中略)

この宣伝文書は、まず、「太平洋戦争」という呼称を日本語の言語空間に導入したという意味で、歴史的な役割を果たしている。新しい呼称の導入は、当然それまでの呼称の禁止を伴い、正確に1週間後の昭和20年(1945五)12月15日、「大東亜戦争」という呼称は、次の指令によって禁止を命ぜられた(中略)

つまり、昭和20年暮の、8日から15日にいたる僅か1週間のあいだに、日本人が戦った戦争、「大東亜戦争」はその存在と意義を抹殺され、その欠落の跡に米国人の戦った戦争、「太平洋戦争」が嵌め込まれた。これはもとより、単なる用語の入れ替えにとどまらない。戦争の呼称が入れ替えられるのと同時に、その戦争に託されていた一切の意味と価値観もまた、その儘入れ替えられずにはいないからである。(以下略)

また、吉本貞昭著「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」(ハート出版)では、次のように述べられている。

(前略)アメリカは終戦後の昭和20年11月3日に、日本が再び連合国の脅威にならないよう、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に対して、日本人洗脳計画を命じた。その計画とは日本人に「侵略戦争」をやったという贖罪意識を植え付ける「戦争犯罪情報計画」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム))と呼ばれるもので、報道と教育を通じてアメリカの都合に良い歴史観を日本人に植え付けることを目的としたものであった。

その最初のプロジェクトは、昭和20年12月8日から全国の新聞に10回にわたって連載された「太平洋戦争史」であった。この連載記事は、満州事変から終戦に至までの日本の「侵略戦争」を強調したもので、翌日からはNHKのラジオを通じて「太平洋戦争史」をドラマ化した「真相はこうだ」の放送を開始した。(以下略)

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